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歴史、明治維新、幕末|京都の懐石 老舗料亭 京大和

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歴史、明治維新、幕末|京都の懐石 老舗料亭 京大和

平安遷都の少し前、延暦元年(782年)ごろ、現在京大和のある場所に、「正法寺」というお寺の塔中(塔中とは、禅宗で、宗祖・開山など高僧の徳を慕い、その塔の近くに建てた僧坊や、小さな寺のこと)の「東光寺」というお寺が建てられました。

鎌倉時代の後期になると、四条大納言隆親(たかちか)の三男である、権中納言隆良(たかなが)が、この山の麓に別荘を建て、「鷲尾」と号し、「淑阿弥」(しゅくあみ)と称されていました。
御所の舞楽の演奏家だった鷲尾中納言は、歌を詠んだり、管弦の遊びなど優雅な時を友人方と過ごされていたと記録が残っています。
そして、隆良の子の孝嗣が、鷲尾を氏姓として鷲尾家の初代となりました。

 

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また、京都の幕末の有名な歌人の一人、熊谷直好(くまがいなおよし)が、翠紅館から見える景色を八つの歌に託して、「翠紅館八景」と題したものが残っており、その中に「嵐峡春花」と題して、「かしこくも 君がながめにかかるとは 知るや嵐の遠山桜」という歌があるのも納得できます。

この鷲尾家の別荘地は、江戸初期、鷲尾家九代参議隆尚(たかひさ)の時まであったのですが、徳川家康が北の政所の為に建立した高台寺のために、鷲尾家は由緒のある苗字を家康によって取り上げられてしまいました。
それでも何かの形で残したいということで、高台寺の山号を鷲峰山(じゅぶざん)としたようです。
天保年間に、同じ霊山のふもとにある翠紅館の場所を、再び鷲尾家の別荘とされたのが、鷲尾家十九代目の鷲尾隆聚(たかあつ)伯爵でした。

 

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翠紅館広間は、三条実美、桂小五郎、坂本龍馬ら、志士たちの会合の場所となりました。
文久三年一月二十七日には、土佐藩 武市半平太、長州藩 井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、さらに、同年六月十七日には、長州藩 桂小五郎、久留米藩 真木和泉守ら、各藩の代表者が集まって、攘夷や討幕などの具体的方策を検討しました。
これが世に言う「翠紅館会議」です。
送陽亭には、桂小五郎、武市半平太、久坂玄端、井上馨、真木泉守が集まり、会合を開きました。現在は、保護建造物となっており、参加者の写真が室内に飾ってあります。

西本願寺はその後、ここを手放され、以後2人の経済人の所有を経て、阪口家三代目当主、祐三郎がここを入手しました。
京大和を経営する大和屋のオーナー一族、阪口家はもともと、奈良・大和地方の豪農でした。「大阪冬の陣」の際には徳川家康公が訪れ、あまりの門構えの大きさに感心し、乗馬のまま家の門をくぐり、馬の鞍を頂戴したといわれています。その後、大阪の堺で「八百竹」の名で八百屋を開店。

明治十年に、初代、阪口うしが「大和屋」を開業しました。三代目当主、祐三郎が事業を拡大しましたが、商売繁盛の勢いで相場をはったのが裏目に出てしまい、さらに太平洋戦争で全てを焼失してしまいました。
裸一貫で出直し、昭和二十一年に大和屋を再開、二十四年に「京大和」を開業いたしました。

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鷲尾家の淑阿弥の眺望が絶景であったことは、江戸時代、京都でも有名だったようで、京都名所ばかり集めた、「都林泉名勝図会」((みやこりんせんめいしょうずえ)、江戸中期に発刊された今で言うところのガイドブックのような本)にも、現在の「翠紅館広間」と「紅葉の間」の詳細な図が載っています。さらに、そこに記載されている手水鉢の場所や、付け書院の位置まで、現在と変わりがありません。

その図の説明には、「洛陽の万戸、鴨川、大井川の二流、愛(愛宕山か)、嵐の峯峰、淀山崎の通船まで、書院より居ながらにして見ることができた」と書かれており、当時は淀川の船まで見えたことがわかります。そして現在でも、桜の咲く頃になりますと、嵐山の桜のピンクの色をほんのりと見る事ができます。

 

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隆聚は、幕末に勤皇派公卿として、高野山挙兵に参加、戊辰戦争では大総督府参謀などを務めて功をなし、維新後、五条県若松県知事、愛知県令、元老院議官などを勤められた、明治の元勲でした。彼は、東光寺(翠紅館)を買い受け、改築して、一時住居として住まわれた後に、建物と庭を含む全てを「西本願寺」に寄進されました。

それ以後しばらくは、西本願寺の別邸として、大切なお客様の接待用に利用されていたそうです。そして時は流れ、黒船の来襲により、国内に「攘夷」の嵐が吹き荒れた幕末、明治維新直前の文久三年に、勤皇派の方々が秘密の会合をする場所として、建物内の二つの部屋を西本願寺のご門主が提供されました。「翠紅館広間」と「送陽亭」が、その舞台です。

 

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