山荘 京大和は昭和5年、大阪の新町で小さな日本料理の店から始まり、それ以来、「世界の名物 日本料理」を信条に料理一筋に研鑽を重ねてまいりました。現在、三代目が取り仕切る山荘 京大和ですが、その歩みはひとえに、私たちを支え歴史を共に築いて下さいました周りの方々の存在があってこそ、成し得た道のりでございます。

この場をお借りしまして皆さまに感謝を申し上げますと共に、その一部ではありますが、様々な方々とのご縁を主とした、山荘 京大和の歴史をご紹介いたします。

平安遷都の少し前、延暦元年(782年)ごろ、現在京大和のある場所に、「正法寺」というお寺の塔中(塔中とは、禅宗で、宗祖・開山など高僧の徳を慕い、その塔の近くに建てた僧坊や、小さな寺のこと)の「東光寺」というお寺が建てられました。
鎌倉時代の後期になると、四条大納言隆親(たかちか)の三男である、権中納言隆良(たかなが)が、この山の麓に別荘を建て、「鷲尾」と号し、「淑阿弥」(しゅくあみ)と称されていました。御所の舞楽の演奏家だった鷲尾中納言は、歌を詠んだり、管弦の遊びなど優雅な時を友人方と過ごされていたと記録が残っています。

また、京都の幕末の有名な歌人の一人、熊谷直好(くまがいなおよし)が、翠紅館から見える景色を八つの歌に託して、「翠紅館八景」と題したものが残っており、その中に「嵐峡春花」と題して、「かしこくも 君がながめにかかるとは 知るや嵐の遠山桜」という歌があるのも納得できます。

この鷲尾家の別荘地は、江戸初期、鷲尾家九代参議隆尚(たかひさ)の時まであったのですが、徳川家康が北の政所の為に建立した高台寺のために、鷲尾家は由緒のある苗字を家康によって取り上げられてしまいました。

また、京都の幕末の有名な歌人の一人、熊谷直好(くまがいなおよし)が、翠紅館から見える景色を八つの歌に託して、「翠紅館八景」と題したものが残っており、その中に「嵐峡春花」と題して、「かしこくも 君がながめにかかるとは 知るや嵐の遠山桜」という歌があるのも納得できます。

この鷲尾家の別荘地は、江戸初期、鷲尾家九代参議隆尚(たかひさ)の時まであったのですが、徳川家康が北の政所の為に建立した高台寺のために、鷲尾家は由緒のある苗字を家康によって取り上げられてしまいました。

TOP