私は京都市街が
もっとも美しく見られる
料亭はどこかと問われれば
躊躇なくそれは
京大和であると答える
哲学者 梅原猛

京大和は平成二十九年より耐震補修工事のため一時休業しておりましたが、令和元年十月に再開いたしました。
江戸時代からの建物と庭園を守るため、伝統工法と多くの方々のご協力を賜りながら修復を進めてまいりました。
再開後は、敷地内に開業されたパークハイアット京都様と協調し、歴史と現代性が調和した空間づくりに努めております。
そのような取り組みの中、ミシュランの星を頂戴することが叶い、大きな励みとなっております。
これからも明治十年創業の精神を大切に、料亭文化の継承と進化に努めてまいります。
今後とも変わらぬご指導ご鞭撻を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
七代目女将 代表取締役 阪口順子
歴史
HISTORY
京大和は、明治十年(1877年)に、
阪口うしにより大阪で大和屋を開業の後、
三代目当主、祐三郎により昭和二十四年(1949年)に
料亭として開業以来、
料理一筋に心を尽くしてきました。
移ろいゆく日本の美しい季節の彩りを、
一椀一鉢に暫しとどめまして、
皆さまのお越しを心よりお待ち申し上げております。
この場をお借りしまして
皆さまに感謝を申し上げますと共に、
その一部ではありますが、
様々な方々とのご縁を主とした、
山荘 京大和の歴史をご紹介いたします。
平安の小さな寺が西本願寺の別邸に
平安遷都の少し前、延暦元年(782年)ごろ、現在京大和のある場所に、「正法寺」というお寺の塔中(塔中とは、禅宗で、宗祖・開山など高僧の徳を慕い、その塔の近くに建てた僧坊や、小さな寺のこと)の「東光寺」というお寺が建てられました。
鎌倉時代の後期になると、四条大納言隆親(たかちか)の三男である、権中納言隆良(たかなが)が、この山の麓に別荘を建て、「鷲尾」と号し、「淑阿弥」(しゅくあみ)と称されていました。御所の舞楽の演奏家だった鷲尾中納⾔は、歌を詠んだり、管弦の遊びなど優雅な時を友人方と過ごされていたと記録が残っています。
また、京都の幕末の有名な歌人の一人、熊谷直好(くまがいなおよし)が、翠紅館から見るえる景色を八つの歌に託して、「翠紅館八景」と題したものが残っており、その中に「嵐峡春花」と題して、「かしこくも 君がながめにかかるとは 知るや嵐の遠山桜」という歌があるのも納得できます。この鷲尾家の別荘地は、江戸初期、鷲尾家九代参議隆尚(たかひさ)の時まであったのですが、徳川家康が北の政所の為に建立した高台寺のために、鷲尾家は由緒のある苗字を家康によって取り上げられてしまいました。それでも何かの形で残したいということで、⾼台寺の山号を鷲峰山(じゅぶざん)としたようです。天保年間に、同じ霊山のふもとにある翠紅館の場所を、再び鷲尾家の別荘とされたのが、鷲尾家十九代目の鷲尾隆聚(たかあつ)伯爵でした。隆聚は、幕末に勤皇派公卿として、高野山挙兵に参加、戊⾠戦争では大総督府参謀などを務めて功をなし、維新後、五条県若松県知事、愛知県令、元老院議官などを勤められた、明治の元勲でした。彼は、東光寺(翠紅館)を買い受け、改築して、一時住居として住まわれた後に、建物と庭を含む全てを「西本願寺」に寄進されました。それ以後しばらくは、西本願寺の別邸として、大切なお客様の接待用に利用されていたそうです。
桂小五郎、坂本龍馬らが討幕を夢見た
「翠紅館会議」の舞台へ
そして時は流れ、黒船の来襲により、国内に「攘夷」の嵐が吹き荒れた幕末、明治維新直前の文久三年に、勤皇派の方々が秘密の会合をする場所として、建物内の二つの部屋を西本願寺のご門主が提供されました。「翠紅館広間」と「送陽亭」が、その舞台です。翠紅館広間は、三条実美、桂小五郎、坂本龍馬ら、志士たちの会合の場所となりました。文久三年一月二十七日には、土佐藩 武市半平太、長州藩 井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、さらに、同年六月十七日には、長州藩 桂小五郎、久留米藩 真木和泉守ら、各藩の代表者が集まって、攘夷や討幕などの具体的方策を検討しました。これが世に⾔う「翠紅館会議」です。送陽亭には、桂小五郎、武市半平太、久坂玄端、井上馨、真木泉守が集まり、会合を開きました。現在は、保護建造物に指定されております。
明治十年に「大和屋」開業
太平洋戦争での全焼を経て再開
西本願寺はその後、ここを手放され、以後2人の経済人の所有を経て、阪口家三代目当主、祐三郎がここを入手しました。京大和を経営する大和屋のオーナー一族、阪口家はもともと、奈良・大和地方の豪農でした。「大阪冬の陣」の際には徳川家康公が訪れ、あまりの門構えの大きさに感心し、乗馬のまま家の門をくぐり、馬の鞍を頂戴したといわれています。その後、大阪の堺で「八百竹」の名で八百屋を開店。明治十年に、初代、阪口うしが「大和屋」を開業しました。三代目当主、祐三郎が事業を拡大しましたが、商売繁盛の勢いで相場をはったのが裏目に出てしまい、さらに太平洋戦争で全てを焼失してしまいました。裸一貫で出直し、昭和二十一年に大和屋を再開、二十四年に「京大和」を開業いたしました。
沿革
延暦年間(782〜806年) | 最澄により霊山寺が興される |
永徳3年(1383年) | 時宗の国阿上人が霊山寺を再興し正法寺と改める |
天正年間(1573〜92年) | 正法寺、豊臣秀吉の庇護を受ける この頃末寺四十二、 塔頭十四を数えた塔頭の一つ東光寺が翠紅館の前身 |
寛政11年(1799年) | この年刊⾏の『都林泉名勝図会』に霊山淑阿弥として記載あり |
天保年間(1830〜43年) | 鷲尾中納⾔が東光寺を買い受け改築して一時住居の後西本願寺に寄贈 |
安政3年(1856年) | 周防(山口県)の僧月性が翠紅館で西本願寺法主広如上人に会い海防論を説く |
安政5年(1858年) | 清⽔寺成就院の勤王僧月照が翠紅館で西郷隆盛としばしば密会 |
文久3年(1863年) | 尊皇攘夷派の各藩志士代表者の会議が翠紅館で催され、攘夷運動が頂点に達した(翠紅館会議) |
元治元年(1864年) | この年刊⾏の『花洛名勝図会』に翠紅館の記載あり |
明治期(1868〜1912年) | 翠紅館が西本願寺より井上周(大阪の実業家)の手に渡る |
明治10年(1877年) | 阪口うしが大和屋開業 |
明治35年(1902年) | 阪口きぬが二代目継承 |
明治42年(1909年) | 阪口祐三郎が大和屋を相続 |
大正4年(1915年) | 神戸の穀物貿易商・沢野定七が翠紅館を買いとり、翠紅館を以前の通りに建て替える |
大正7年(1918年) | 茶室を薮内節庵の指導により建てる |
昭和23年(1948年) | 阪口祐三郎の所有となる |
昭和24年(1949年) | 京大和開業 |
昭和28年(1953年) | 阪口祐男が大和屋を相続 |
昭和33年(1958年) | クラブアロー開業 |
昭和45年(1970年) | 京大和別館新築開業 |
平成9年(1997年) | 京都駅ホテルグランヴィアに天ぷら処京林泉開業 |
平成20年(2008年) | 新・都ホテル内に京大和屋を開業 |
令和元年(2019年) | 10月 京大和 新装開店 |